高橋ユリカです。Web siteにお訪ねくださり、ありがとうございます。

暮らしのこと、医療・福祉のこと、東京のまち、地方のまち、川のこと、さまざまなことを取材して書く仕事や活動をしてきました。どうしてこんな活動をしているのかなと思って下さる皆さまに、自己紹介をさせていただきます。2008年新春、川辺川でいただいたご縁で、「週刊ひとよし」の松本学さんが、Web siteを立ち上げてくださりました。Thanks a lot !

*子ども時代〜大学卒業
東京都大田区の多摩川沿いのまちに生まれ育つ。4,5歳の頃、建築家だった父が自宅を設計。新しい小さな家が大好きだった。その間暮らした田園調布は、大叔父が設計したという駅舎とまちが美しく、建築家という仕事に憧れた。しかし、どうもその才能はなさそうで、その後の夢は、当時のNHK人気番組「新日本紀行」を作る人、もしくは新聞記者だった。中学・高校は桜蔭学園へ。70代で校長だった水谷年恵先生をはじめ、素敵な先生方に出会い、女性が仕事をすることはいわずもがなの環境で受けた影響は大きい。
1975年に早稲田大学第一文学部入学。ベトナム戦争が終わった年の大学は、学生運動に疲弊しており、多くの学生は「社会運動」アレルギーに。翌年には、「ポパイ」が創刊され、テニスやスキーなど明るい空気に憧れる時代へ。渋谷のパルコにでかけることがおしゃれな楽しみだった。77年〜78年にかけて交換留学生としてオレゴン州立大学へ。アメリカではウーマンリブもひと段落、ますます、女性が仕事をもつことが当たり前と思うことに。「ポパイ」誌面でみるアメリカと、現実のギャップが大きいことに気づく。将来は、「見たこと」を伝える仕事をしたいと、さらに思うようになった。帰国時は、ポートランドからデンバー・フィラデルフィア・ワシントンDC・ボストン・NY・ロンドン・ザルツブルグ・ドイツのライン下り、パリ・バンコクとround tripをした。結婚・子育てと仕事の両立を考えて、文化出版局で女性雑誌の編集者に。

*編集者〜ライターに
取材記者志望なのに、「ミセス」編集部で思いもよらなかったファッション担当。まるで映画「プラダを着た悪魔」の女の子のように右往左往。アイロンもかけられない、とんでもない新入社員であった。後には好きな美術関係・インテリア・エッセーなどの担当に。学ぶことは多かった。80年代は、東京がほんとうに面白かった時代。新しい雑貨屋、パワフルなデパートと美術館の「西武」カルチャー。ウォーターフロントのギャラリーや、続々オープンしたレストラン。グルメ時代の幕開けもあり、さまざまに豊かさを満喫した。洲之内徹氏との旅など得がたい経験も。「谷根千」の創刊、「トマソン」遊びなど、「まち歩き」文化にもなじみ、その後、創刊の「元気な食卓」では、おおいに仕事を楽しんだ。84年に結婚、翌年に息子が誕生。バブル期が始まりつつある中で転職。若かったなと、このときのことは反省。食文化雑誌の「バッカス」で編集者に。子どもが小さい頃は、さすがに大変・・・フリーになることに。「人が動く」というシリーズを担当。池澤夏樹氏、関川夏央氏、吉岡忍氏ら気鋭の作家たちと外国取材を重ねて「越境者たち」(TBSブリタニカ)という本になった。その後、いよいよ「取材をして書く」仕事を本格的にやってみることに。「AERA」の人物インタビューページでデビュー。「中央公論」などハードな雑誌で書くことに。自分の名前で書くライターは想像以上になかなか大変だった。

*病気の経験から〜1998
92年に大腸がんに。いきなり別世界である。告知率20%の時代。自分自身が取材をする人で、それでも抗がん剤のことがよくわからなかった。近藤誠医師が「患者よ、がんと闘うな」で、初めて抗がん剤の副作用問題が社会化されて、目からうろこ。95年に最初の著作「キャンサー・ギフト」(新潮社)を出版。病と死を考えるなかで、ひとは、自然と共にある存在であることを痛感。元気になって、がん告知後の問題について取材。96年、近代医療を考えることで、熊本の川辺川ダムや水俣病問題に行き着き、原田正純先生に出会う。西洋医学の限界を感じることが、なぜか、ダムによる治水の限界や副作用を理解することに重なった。「エキスパートナース」誌の連載を98年に「病院からはなれて自由になる」(新潮社)にまとめて出版後、二つのテーマを追いかけることになった。「川辺川・東京の会」発足へ。

*ホスピスから自然〜自然環境・公共事業問題へ
水俣病問題が発生した不知火海に注ぐ球磨川。その支流に予定された川辺川ダム問題。人吉や相良村で、さまざまなご縁があり、熊本県の川辺川ダム問題を定点的に取材。00年に、岩波ブックレット「誰のための公共事業か〜熊本・川辺川ダム利水裁判と農民」を出版。一方、不足していた緩和医療とホスピスを積極的に取材。ひとの最期を考えることは、医療の課題を越える。そして、ホスピスとは、ただターミナルのときに必要なものではなく、「生き方」のことではないかと思うようになった。たとえ病があっても、障害があっても、ひとが、その人として十全に生きようとすることだ、と。スウェーデン・イギリスへの取材も試みた。01年に、「医療はよみがえるか〜緩和ケア病棟とホスピス」(岩波書店)、岩波ブックレット「よみがえれ、宝の海〜有明海・諫早湾〜不知火海・球磨川と漁民たち」(共著)を出版。川から海、そして森。諫早干拓や林業問題についても取材するなど、これまで知らなかった農林業や漁業、地方の暮らしを学ぶことになった。ダムに限らず、人吉の魅力など、さまざまな記事を書く。雑誌「NEW ENERGY」には「豊かさのかたち」について連載など、その後、2011・3・11の大震災後に話題になったパラダイムシフトがわたしなりのテーマになっていった。

*川辺川ダム問題をまとめて
07年4月より、地元誌「週刊ひとよし」に「ダム取材10年」の連載を開始。それぞれの地域の財産は、地域の人たちが守るべきもの。また、税委譲が伴わない地方分権の問題は大きいと学び、東京への一極集中は忸怩たる思い。その視座から熊本の人たちを応援した。だからこそ、地域の宝である川を壊すダム建設は慎重であるべき、と。08年9月には、相良村長、人吉市長、そして、熊本県知事から「川辺川ダム」反対・白紙撤回が発言される。実質的に、川辺川ダムは中止へ。09年1月「川辺川ダムはいらない〜宝を守る公共事業へ」(岩波書店)にこれまでの連載を加筆・修正して刊行。09年9月には、政権交代。前原誠司国交相より「川辺川ダム中止」発言があったが、実質的に川辺川ダムの中止を決定したのは地元の人たちの熱意である。ダム問題への関わりは、わたし自身ひと段落。その後、「社会的共通資本としての川」(東京大学出版)の共著者に。

*下北沢から、TOKYO、世界の「まち」へ
地域の暮らしと公共事業についての取材をしてきたが、わたし自身が暮らす下北沢にも大きな課題があることに気づいた。下北沢が歩いて楽しいまちだと大いに気にいっていたが、小田急線の地下化に伴い、下北沢駅やまちが変わるということに、わたしにとってのDNAである「建築とまち」への思いが重なった。2005年より、「下北沢フォーラム」で活動を開始。しばらく地方や自然について思いを馳せてきたが、東京に視線を戻すことにもなった。大きくない下北沢という「まち」が、国際的な人たちからの熱い視線を受け、車社会からの転換が国際的に起こっていることを痛感。ローカルでグローカルな「シモキタ」から、学ぶことは大きかった。政策転換の遅れは、都市にも共通していることであった。これは、全国各地での課題でもあった。全国各地でのさまざまな活動を見てきたこともあり、市民が専門家と一緒に勉強をしていく発信をしていくことの必要性を痛感。地域に優れた専門家がいたことも幸いして、2008年「小田急線跡地を考える会(あとちの会)」を立ち上げ、継続して勉強会などをしてきた。さらに未来への夢を育みながら活動をすべく2011年6月には「グリーンライン下北沢」として名称を変更して代表に。市民と専門家が協働して、地域でのソーシャル・デザインの場づくりを目指していきたいと思っている。

 2006年、ちょうど息子が、わたしが留学したときと同じ年齢で、ロンドンへの留学と西から東へのround tripへ。アートやデザインを学び、仕事をすることになった息子に、わたし自身が好きだったことへの思いもふくらむ。息子が幼い頃から、家族でたくさん海外への旅をした。病気と子育てで、少しずつではあったが社会参加をし続けることができたのは幸い。日々の暮らしをだいじにしつつ、建築や都市、まちをもっと学び、できることを重ねていきたいと思う。

執筆雑誌:「AERA」「中央公論」「母の友」「世界」「週刊金曜日」「婦人公論」「読売ウイークリー」「ミセス」「ターミナルケア」「NEW ENERGY」「チルチンびと」 など